尽くす女と尽くされる女の間に存在する、埋められない断絶の正体は、"エロス"だった?
おはようございます。あやなです。
私、自分のことをずっと尽くす女だと思っていたんですけど、最近もしかしたら違うのかなと思えてきました。投げっぱなしの愛情は愛情ではなく、押し付けじゃないかと思えて仕方ないのです。
「あやなってさぁ、自分は一方的に思ってるだけでいい、見返りを求めたくないってよく言うけど、それって思われてる方からすると、すごく寂しいんだよ」
10年ほど前、親友に言われた台詞がいまだに記憶に残っています。*1
「お前は基本的に俺のことを信頼してないよね」
と、恋人に言われたときも、私は咄嗟に否定することができませんでした。そ……そんなことないよ、ともごもご言いながら、もしかしたらそうなのかも、と思ってしまいました。
一方的に愛することは、見返りを求めないことです。相手に期待をしないこと、相手を信頼しないこと。でもそれって、健全な在り方ではないのかなと思うようになりました。対人間のアガペーなんて、所詮薄っぺらい自己満足に過ぎないのかもしれません。本当の神への愛を人間に向けるには、相当の努力が必要なのだと思います。
現に、今まで「尽くす」生き方をしてきて、私はずっと寂しかったし、相手にも寂しい想いをさせてきたのでしょう。
一方、「尽くされる女」は見返りを求める女です。甘え上手とは少し違います。自分が何かしてあげた分、相手にも同じ熱量を求める人間なのだと思います。返ってこなくてもいいや、で貸すのではなく、ちゃんときっちり利子をつけて請求する人間が「尽くされる人間」なのです。
こうして記事を書いていても思います。単に「書く」ということと、「伝える」では全く別物なのだ。使う筋肉が違う。
伝わらなくてもいい、愛することができればいいのだと思って生きてきました。片想いでいる間の方が楽なんです。想いを寄せられるとどうやったら応えられるかと悩んでしまうので。想っているだけなら、永遠に失恋することもなく好きなままでいられるので。
しかしこうしてブログを更新したり、文章をきちんと学んで書くようになってからは、「伝わってほしい」と願うようになりました。今までの自分にはなかった変化なのかもしれません。欲が出てきたのかもしれません。ようやく、想われる人の気持ちに立つことができたのかもしれません。
面白がってもらいたい、泣いてもらいたい、笑ってもらいたい。自分の文章で誰かの心を動かそうなんてとんでもないと思っていたのに、今は一人でも多くの人の心に届けばいいなと思って書いています。(の、割にめちゃくちゃどうでもいい携帯なくした日記を連日書いてすみません!)
「書く」ことが楽しくて、「伝える」ことは怖かった。自己満足癖はなかなか抜けません。28年かけて培ってきた、私なりのアガペー。もしくは諦観と呼ばれるもの。エロスの世界に飛び込むには少し勇気が要ります。
それでも私は、伝えたいな、と思います。まだまだ未熟者ですが、伝わればいいな、と思います。
投げっぱなしの愛情は、愛情ではない。
伝わらなければ意味がない。
伝わってほしいと願うことは、相手を、読み手を信頼することでもあるのかもしれません。
生きるスタンスが少し、変わってきました。
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というわけで、本日の記事です!
今日も起きられなかった……夜更新になってしまってすみません。明日こそは皆さんの通勤通学のお供になれますように。
それでは、皆さん、よい夢を(*´-`)
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本日の起床時刻
7:16
朝ごはん
コーンスープ
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*1:親友(だと思ってる)と言うと、心優しい彼女はまた私のために泣いてしまいそうなので、「親友」と呼ばせていただきます。私はどれだけ彼女に救われたか知れません。いつもありがとう。