【第76回】小泉今日子のやわらかな寂しさ
おはようございます。あやなです。
きっかけは一冊の新書でした。
普段、新書の棚はスルーしてしまうのに、その日だけは違いました。棚を埋め尽くす背表紙に視線を滑らせている最中、ふと目に留まった一冊に手を伸ばしたのは、偶然でしょうか。いえ、必然なのだと思います。「小泉今日子」は私の人生に影響を与え続ける二人の共通項でした。
一人は母です。私がアイドルオタクになったのは母の遺伝じゃないかと思えるほど、彼女はアイドル好きでした。中でもキョンキョンの曲は、よくカラオケで聞かされたものです。
もう一人は、友人。時に嫉妬に狂いそうになりながら、10年以上にわたり憧れ続けてきた、不思議な友人です。そんな彼女は、以前から「憧れの人は小泉今日子さん」と公言していました。
だから、ちょっと魔が差したのです。
新書は面白かったです! 「小泉今日子」を題材に、その時代で常に旬で居続ける女性の生き方を提示していました。
ただ、私が惹かれたのは新書の論旨ではなく、小泉今日子という一人の人間でした。本書の中ではたびたび、彼女のインタビューやエッセイが引用されます。
それを読んでいくうちに、他人から見た小泉今日子ではなく、生の小泉今日子の言葉に触れたいな、と思うようになりました。
そこで購入したのが以下の2冊。
黄色いマンション 黒い猫
小泉今日子書評集
あぁ、私の書きたい文章は、これなんだ、と思いました。
読みやすく、美しい文章。
それらを用いて彼女が語るのは「喪失」の記憶でした。気づいたらずっとこの2冊ばかりを読んでいます。
あたたかいのに、なぜかひやりとしている。
幼い頃、家のすぐ前を流れていた小川のような温度で、彼女の文章は流れ込んでくる。
読後、宝物のように抱き締めたくなった文章なんか今までにいくつも出会ってきて、それこそ星の数ほどあって、だからこそ私は誰かの宝物になるような文章を書きたくて今もがいているわけだけど、こんなにすぅっと入ってきたのは本当に久し振りで気が滅入るくらいです。
泣いても泣いてもきりがなくて。
特に、「小泉今日子書評集」の中で語られる「白骨花図鑑」についての記事が、本当にもうぞくぞくするほど美しくて、悲しくて怖くて、この短い記事を何度も何度も読み返してしまいます。
肩に力が入っていないからこその読みやすさ。肩に力が入っていないのに、この美しさ。彼女は失ったものを思い出しはしないのかもしれない、と思いました。忘れていないから、こんなに今もそばにあるものとして書けるのかもしれない、と感じました。
私の妄想かもしれないけれど。
小泉今日子さんの文章に漂うやわらかな寂しさを受け止めて、今日も眠りにつこうと思います。