セルフ・ダンピング ~私の心は100g0円で買えます~
おはようございます。あやなです。
最近、自分の恥部をさらすことに躊躇いを覚えなくなってきました。文章教室(ライティング・ゼミ)の影響もありますがそれ以上に、こうして毎日ブログを書いていることが大きいのだと思います。このブログでは見聞きしたものを含めとにかく自分のことばかり書いているので、少しでもネタになりそうなことは何でも見つけて書く。更新を続けていくためにはなりふり構っていられません。(なにしろ、毎日書くと宣言してしまったので。)これを続けていると、徐々に自分の精神を切り売りしているような感覚に陥ります。はじめは抵抗があったけれど、もはやどうでもよくなってきました。売れるもんがあるなら、全部売ってやんよ、という気持ちです。
中高生の頃読んでいた少女小説の一つに、「マリア様がみてる」という作品がありました。カトリック系お嬢様校に通う女子高生たちの優雅な日常を描いた青春ものです。シリーズ3巻「いばらの森」で、こんなことが語られていました。以下、台詞はうろ覚えです。
「肉体を売るのと精神を売るのに、何か違いがあるの?」
いや、全然違うでしょう! 当時、そのシーンを読みながら私は思いました。けれど、その、「違う」と思った理由をうまく説明できませんでした。
「いばらの森」は大体こんな話です。
「白薔薇さま」と呼ばれる生徒会長・佐藤聖の過去にそっくりな小説が発売された。この小説を書いたのは白薔薇さまなのか、それとも白薔薇さまの過去を暴こうとする誰かなのか? 生徒会のメンバーはこっそり調査に乗り出す。
上記の台詞は、調査をすることになったとき「白薔薇さま」の親友である「紅薔薇さま」が言ったこと。学園ではアルバイトは禁止されており、本を出版することはそれに当たらないか。過去、密かに風俗で働いていた生徒が退学させられたこともある。
「紅薔薇さま」の挙げる例に、「風俗と文筆は違うでしょう」と噛みつく後輩。それに対する返答が、これだったわけです。
極端な喩えと言いますか、暴論だなぁとは思います。けれど、「文筆は精神を売る仕事」という「紅薔薇さま」の考え方は当時から小説を書いていた私には、なんとなく引っ掛かりを覚えるところでずっと記憶に残っていました。
正直なところ、私の過去は後ろめたい記憶ばかりでして、何を書こうとしても「これは隠しておきたい」「この話は誰にも知られたくない」と自己防衛に走っていました。おそらく、他のひとにとってはそれくらいで、と笑ってしまえる程度のことなのですが。
この話をしてしまったら引かれるのではないか、嫌われるのではないか、既にある私のイメージを壊すことになるのではないか。
そんなことを考えて、本当にある感情をそのままぶつけることができませんでした。
けれど、毎日ブログは書かないといけない。
ネタが切れていく。どうしよう。それに、当たり障りのネタで書くよりも、面白いものが書きたかった。どうせ書くなら、より面白く。
それを続けているうちに、何を書いてもいいやって気分になってきました。今はもう、自分のことはどうでもいいです。恥部を晒すことで共感を得られたり、おもしろがってもらえるなら、私は喜んでこの精神を差し出そう。
自分のイメージってなんだ? 自分が一番自分のことをわかりもしないくせに、なにを偉そうに取り繕っていたんだか。
もうやめます。やめました。
100g 0円での量り売り。叩き売りです。価格破壊です。そんな感覚で記事を書いていきます。
"えっ、こんなひとだったの!"
"あなたがこんなひとだと思わなかった!"
はい、私はこんな人間です。引いてもらって構いません。面白がってもらえたら最高です。驚く記事をこの先書くかもしれませんが、暖かい目で見ていただけたら幸いです。