「プライドだけ高くて仕事のできない」私が真剣に考える、「できる」人になるための思考改造
仕事ができないのに、プライドだけは高い社員をどう扱ったら良いか。 | Books&Apps
この記事を読んで正直泣きたくなった「プライドだけ高くて仕事のできない」社員、日本代表です。
自慢じゃないけど、仕事ができません。
アルバイトを含めて19歳の頃から約10年、労働の対価として賃金をいただいてきましたが、これまで一度として賃金に見合う仕事をしたと思えたことがありません。
いやいや、謙遜でもなく。
この記事にあるようなミスはほぼ全部やりました。大変申し訳ないながら、今でもよくやります。
居酒屋のアルバイト時代は、メニューによって焼き場・カウンターと、オーダーを通すところが決められていたのですが、まぁこれが覚えられない。違うところにオーダーを通すと、キッチン内で混乱が起きるので、店長に怒られる毎日。
その後、レジのアルバイトを始めてからはとにかく電卓が打てない。数字の見間違い、打ち間違い、言い間違いが多くて、常に背後で上司にレジ打ちを監視されるようになる。余計にレジが打てなくなる。
新聞社での事務を始めると、電話がとれない。相手の言葉を正確に聞き取れず、名前を間違えて伝えたり、電話番号を聞きそびれたり。気性の荒いデスクや記者さんに怒鳴られる日々……。
他にももろもろ、上書き保存しちゃいけないファイルを上書き保存してみたり(3年分のデータを手打ちすることに!)、期限内の仕事をころっと忘れていたり、印鑑を押すべき場所で押していなかったり、「すべての仕事を完璧にやる」ということがどうしてもできなくて、注意力散漫。要領が悪い。
とにかく抜けが多いので、何度も引き出しを開けたり閉めたりする。これ、仕事ができない人に共通する動作だと個人的には思っています。(ちなみに普段から後ろがつかえているレジやATMでもたつき、後ろの人をイライラさせることがかなり多いタイプです。)
自分ができないことをわかっているのだから、ちゃんと確認する癖をつけようとチェックリストを作ってみたり、TO DOリストを作ってみたり、付箋を活用してみたりもしたのですが、全然うまくいかない。
なのに、プライドだけは誰よりも高い。
注意されると反省するより先に「ムッ」としてしまう。悪いとわかってはいるのに、プライドが言い訳を始める。「違うんです、これは……」と言いたくなる。
ぐっと堪えて言い訳になりそうな部分をバッサリカットし「すみません」と頭を下げても、心のなかで「違うのに、本当はこうなのに」と延々呟いてしまうので、結局は同じことです。
よく、プライドの高いタイプには見えないと言われるんですけど、プライドが高すぎてプライドが高く見られることすら許せないのでそう見せないようにかなり気を付けているだけです。
言い訳をしてしまう、的はずれな工夫をしてしまう、気が利かない……etc.
欠点だって自分でもわかってるんですよ。
でも、直せなかった。
「私だってできるはず!」
そう思ってきました。
「あの人より私の方ができるはずなのに!」
「どうしてあの人はできていて私はできないの!」
できる人と自分を比べては怒り、嫉妬し、余計にプライドの標高を上げてきました。
要領が良くなりたくて読んだ自己啓発書やビジネス書の類にすら、私は反発心を抱いていました。
「こんなやり方で能力値が上がるなら苦労しない」
「これに似たやり方を試してみてもダメだったじゃないか」
「インチキだ」
こういう反発心を持つことで、私は自己を確立してきたのだろうし、ある意味安心していたのだと思います。
「できる人」を認めてしまえば、自分の価値がなくなると思っていた。
だってそうじゃないか、「できる人」がいるなら「できる人」にさせればいい。何をやらせてもうまくできない私には価値がない。必要ない。
「できる人」になるための努力をしてこなかったわけではないと、今でも思っています。「できる人」にならなければ必要とされないから、どうしてもあちら側に行きたかった。だから、工夫もしてみた。でも、うまくいかなかったのは、努力の方向性が常にずれていたからで、根本にあるのはプライドの高さゆえに素直に「悔しい」と思うことができなかったから、なのかもしれません。
もし、もしこの記事が、私のような悩みを持つプライドモンスターの目に触れることがあったら、一緒に「純粋な悔しい」を見つけませんか? と言いたいです。
ライティングを勉強し始めて、一番変わったなと思えることはひとをすごいと思えるようになったことです。
とか言うと、私の性格は相当歪んでるなと思うんですけど、正確に言うと「一番になりたい分野」において「他人」を「すごい」と認められるようになったことなのだと思います。
これはライティングの分野に限った話ではなくて、部活でもそうだし仕事でもそうだし、趣味でもそういうことがあるかもしれません。私にとって文章を書くことはずっと誰にも負けたくないと思ってきたまさにプライドそのもので、だからこそ書くことを怖いと思っていた時期がありました。
毎週の課題の中で特にいいと判断された方の記事にコメントをつけていきます。初回の講評のときですね、ほんと言うと私吐きました。それから1週間くらいほぼ何も食べない状態でゾンビみたいな顔して仕事をしていたと思います。
初回の作品はどれものこぎりで切ったばかりの木材のように、断面がざらざらしていました。このひとたちの書く文章にはヤスリがかけられていないのだと思いました。そこが、何よりすごいところでした。コメントを書くためにはしっかり読み込む必要があり、完全に作品の持つパワーにあてられました。
とても悔しかったです。同時にやっぱり、私が書く必要はあるのかと思いました。これだけ面白いものを書ける方がたくさんいる中で、私の書くものがさらに求めてもらえるとは思えなかったからです。
仕事のときも同じことを考えていました。
でも、違うんですよね。「すごい」誰かがいることと、「自分の価値」はつながらないんですよね。相対評価に慣れてしまったから「すごい」のパイを取り合わないといけないと思っていたけれど、そんなことはなかった。土俵にのぼる必要さえなかったわけです。
あなたはすごいよ。
だから悔しい。
私もすごくなる。
書きたいから書くのだし、仕事だってできるようになりたいから苦しい。意味も価値もいらない。やりたいと思う意志さえあればいいんじゃないの? と。
「すごい」と心から認めることで、すごいひとたちのやり方を真似しようと思うようになりました。プライドの高さが邪魔をしてできなかったことが、ただ「すごい」と思うことで、できるようになりました。
これ、仕事も同じなんじゃないかなと思います。部活も趣味も、そうです。「プライド」の存在によって伸び悩むことが多々ある。
行き詰まっているなら尚更、自分の物差しだけでなく他人の物差しを使うことが大事になってくるのだと私は思います。
勿論、向き不向きの問題はあります。仕事においてだと、たぶん私、時間をかけてミスのない処理をするのが本当に苦手です。仕事じゃない場面でもそうですし、手先も不器用だし、単純作業も苦手。だから穴があることを見越して、穴に素早く気づく練習をしていこうと思っています。修復不可能なレベルまで到達してしまう前に修繕できるように。
「できる」と言われないまでも、「できない」とは言われなくなるかなと。これにさらに自分の持ち味をプラスしていけたら、「できる」の評価にシフトしていける気もします。
まぁ、拗らせきっていた頃の私はこの記事を読んでも「っんだよ! そう思えるなら人生うまくいってるよ!」とか、言って道端の空き缶を蹴飛ばしていたと思うので。笑
少しずつ明るい方に思考を変えていけたのは、本当に周りのひとに恵まれたからだよなぁとしみじみ。
中高の友人も、大学の友人も、ゼミや部活の先輩も後輩も、バイト先の上司や先輩も、会社の上司も同僚も、ライティングを通して知り合った方も、「すごい」奴らしかいないです。もしかしてこの世界って「すごい」ひとしかいないの?
「すごい」ひとに周りを囲まれた、まさに四面楚歌です。恥ずかしいからあんまり言えないけど、マジリスペクトです。
でも悔しいという気持ちは忘れずに燃やしていきます。お前らの養分を余すところなく吸収して私も「すごく」なるからな、と思いながら今日もだらだらと文章を書き連ねています。
さて、本日は有休だったので、番外編ということで記事を書きました~。
今夜はフラワーフライデーナイト通称花金ですね!!
私はですね、今夜は映画見ますよ!
うふふ!
ではでは、皆さん今週もお疲れさまでした(*´-`)また明日!
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本日の起床時刻
8:30
昼ごはん
平日限定ランチを狙っていたのに結局天ぷらのひらおに行ってしまった……
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